無念無恥
思考の多くの部分がAIに委託された。私たちが迎えた新しい時代の基調なのだろうかとも思う。より多くのことを知り、より多くのことができるようになった喜びは生まれたものの…… どういうわけか、達成の喜びが以前ほど長くは続かない。AIと一緒にあれこれ作ってみたり、研究や勉強をしてみたり、論文を書いてみたりと、これまでやってみたかったことは一通り試してみた。 滝の下で勢いよく降り注ぐ水流に感嘆し、欲張って柄杓(ひしゃく)を差し出してみるものの、いざ柄杓の中に残る水はさほど多くない。
思考の委託とともに、責任の委託も同時に起こる。発散する思考と行動は、過程と結果に対する羞恥心を忘れていく。
「無念無恥(思考もなければ恥もない)」の状態になっていく。
これが新しい時代の基調だとするなら、順応すべきか、それとも抵抗すべきか。 物理的に打ち壊すべき蒸気織機があるわけでもなく、すでに生活の毛細血管にまで浸透してしまった以上、社会全体としては順応していくことになりそうだ。 あえてレジスタンスになりたいとも思わない。
素直に順応したくはない一方で、その力は享受したいという矛盾した思いがよぎる。
順応と抵抗の間、いつだって極端な二択以外にも賢明な選択はあるはずだ。
それこそが新時代における私たち全員の課題なのだろう。
良い側面に目を向けるなら、世の中の非効率が解消されていくにつれて、より本質的なことに集中できるようになった。 これまで自分が「開発」というキーワードの中で何を好み、何に楽しさを感じていたのか、その具体的な対象を見つめ直す機会が生まれた。
単にコードを入力するという行為自体は、もちろんそこまで強烈な面白さを与えるものではない。 何が自分に効力感を与えてくれていたのか今になってじっくり考えてみると、人間が直接コードを打つときの速度と思考のテンポがちょうど良く噛み合っていて、その合間で行き交う様々な試行錯誤に面白さを感じていたのではないかと思う。
単純なタイピングの最中に並列でいくつもの思考が回り、それらが動的にタイピングの目的を更新していく——そのプロセス自体が楽しかったのではないだろうか。
加速した新時代のテンポの中にも新しい休息の形はあるのだろうが、これまでの慣性のままでは少し歩調を合わせづらい感覚が否めない。 仕事にも色々な種類があるので、泥臭く果てしない作業においては本当にありがたい限りなのだが……それでもやはり過去を懐かしんでしまう(美化されているだけだろうか?)。
最近、朝早くに水泳へ通っている。 泳ぐときに息継ぎのタイミングを掴むことも、そのタイミングでしっかり息を吸うことも、すべてが適切に噛み合わなければすぐに息が詰まって沈んでしまう。 鼻に水でも入ろうものなら、なかなかに苦しい思いをする。
見方を変えれば、無念無恥の状態になったというより、自分が新しい水の中に放り込まれた状況なのではないか。 近道などなく、ただひたすらにまた訓練し、精進する以外に方法はない。
それぞれのやり方や訓練法があるだろうし、身につけていく経験も増えていくだろう。 個々人が試行錯誤することも意味のあることだが、人間が持つ固有の価値とは、そうした経験を分かち合い、ともに積み上げていくことにあるのではないだろうか。
解釈可能な世界 (Explainable World)
私たちは絶えず世界を解釈しようとする。原初的な好奇心なのだろうか? これもまた一種の原罪なのだろうか? 単なる理解を超え、解釈可能な世界を作ろうとする。曖昧なもの、未知なるものは深海の奥底のようなもので、恐怖の対象であると同時に何かを強く刺激してくる。
本質的な部分はすでに多くが解明されているように思う。物理層において私たちを構成する力や材料は分かっているし、それらは論理的に独立した数学の上に成り立っている。
ただ、その上に幾重にも積み重なったレイヤーは高度に複雑であるため、いまだにレイヤー間の関係を解き明かしきれていないようだ。
目の前にあるオーク(ナラ)の葉を見てみよう。この葉を構成する分子や物質を調べるとする。それはその葉のスナップショットの断片を知ることはできても、オークというマシンの全体的な動作や生態を説明してはくれない。
ショウジョウバエのコネクトーム(神経配線図)も、今のところはその個体の特定時点におけるスナップショットに過ぎず、どのような重みを持ち、物理的な感覚点とどう有機的に結びつき、成長していくのかまでは説明できない。
開発も同じではないだろうか?
いくつものプロジェクトを見てきたが、同じフレームワークの上にあり、同じ言語を使っていたとしても、それだけでそのプロジェクトの生態系やルールを代弁することはできない。
単なるプロジェクトのコードだけで全てが分かるだろうか? オークの木と同じように、その木が存在する宇宙や環境についても知らなければならない。デプロイはどうなっているのか、どんなレイヤーを経由するのか……。 一種の生命体を扱うようなものだ。
十分な時間と知能さえあれば、オークの木とは違って、プロジェクトの生態と動作を人間が理解することはできる。誰かがすべてを把握しているということは大きな強みである反面、不在時には大きなリスクにもなる。 Well-known(既知)の割合が一定だとすれば、プロジェクトは確率的に無知の中に置かれている。私たちはその深淵(abyss)を恐れるがゆえに、解釈可能な状態に置いておきたがる。
LLMはその確率を大きく改善してくれる。Well-knownな参加者を大幅に増やすことで確率を引き上げるのだ。 かといって、純粋な参加者の割合が増えたとは思えない。外部から増えたものだからだ。
世界を理解する上で、自分と自分を取り巻くツール群を一つの論理的グループとして捉えるなら、 私たちが今、そしてこれから日常や業務、研究においてツールとどのような関係を結び、どう使おうとも、LLMはそのグループが無知に置かれる確率を下げる役割を果たすことになる。 参加者が増えるほど、あるいは個々の構成員が能動的であるほどその確率は改善されるだろうが、結局のところ特定の構成員の能力が高まるほど依存的にならざるを得ず、グループの認知的拡張と個人の認知の向上は、すべての個別要素に比例するわけではない。(私たちはフェードアウトしつつあるのだろうか?)
話を戻すと、オークの木は私たちが作ったものではない。私たちと同じフィールドに存在するオブジェクトだ。 しかしプロジェクトは、私たちの認知のもとで解釈可能なものの集合として書かれた。認知の能力が変われば、いつでも新しく書き直され得る。誰もがAIを傍らに置いて働くようになった今、実際の参加者も以前のような人間ではなく「拡張された人間」であり、一種の新しい種が誕生したのと同じだと考える。さらに遠い未来には、取って代わられるのだろうが。