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title: "自由意志と決定論"
description: "ロバート・サポルスキーの『Determined』を読み、自由意志と因果関係、そして私たちが理解する世界の解像度について考える。"
date: "2026-10-24T09:32:00.000Z"
categories: ["essay"]
source_url: "https://yongseok.me/blog/ja/%EC%9E%90%EC%9C%A0%EC%9D%98%EC%A7%80%EC%99%80-%EA%B2%B0%EC%A0%95%EB%A1%A0/"
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# 自由意志と決定論

ロバート・サポルスキーの『Determined』を読んだ。自由意志の存在を問い直す見出しを見て、自分の考えに近そうだと思い、つい手に取った。

自由意志とは何だろうか。それを考える前に、その土台にある世界について考えてみたい。
私たちの世界は因果で成り立っている。ある出来事や現象が起きたなら、それを引き起こした原因があり、その原因にもまた別の原因があるはずだ。
その因果関係を果てしなくさかのぼれば、どこへ行き着くのだろうか。

## ティックに区切られた世界

ここで、1つの可能性を想像してみる。
量子力学で確率的に記述する現象にも、その下にはまだ知られていない、より根本的な状態と因果関係があるのではないか。
私たちが観測する確率は、世界そのものの根本的な無作為性ではなく、その世界の一部である私たちが、基底の状態を完全には知れないために現れるのかもしれない。

そのような世界を仮定して、私たちの世界をゲームのようなごく小さな時間単位、ティックに区切って考えてみる。
次のティックは現在の状態から遷移する。前のティックがなければ、次のティックもなかったはずだ。

もちろん、実際の宇宙がこのような離散的ティックでできているという科学的な主張ではない。ただ、因果を理解するための比喩としては有効だと思う。そのティックをさかのぼると、最初のビッグバンの時点へ行き着くと仮定しよう。
すべての変数と、この状態機械の遷移規則が与えられれば、次のティックも1つに定まるだろう。ここでいうのは、未来を実際に計算できるということではなく、
理論上、次の状態が定まっているという意味だ。その次のティックも同じように続き、未来と呼ばれるものも、すでに連鎖的に決まっていると考えられる。
こうした基底の状態と遷移が決定論的なら、観測する世界がどれほど確率的に見えても、その未来は存在論的な水準ですでに決まっていることになる。

人間も特別なものではなく、宇宙の現象の1つにすぎない。この世界の規則には逆らえない。

私たちは、どんな因果でできているのだろうか。
1つの個体として見れば、いまの私たちを作るものは、生まれ持った生物学的条件、成長の過程で経験する出来事、学習や社会化、そしてその中で変化してきた神経細胞のつながりまで、すべて以前の状態から続く因果関係の一部だ。

## 意識というブラックボックス

では、人間の意識とは何なのだろうか。

私たちは意識を、高貴で特別な何かだと考えがちだ。もしかすると、その具体的な仕組みや動作をまだ十分に理解していないから、魔法のように見えるだけなのかもしれない。

生物学的・化学的な水準で見れば、脳は無数の神経細胞が複雑につながる、巨大な生体ニューラルネットワークだ。経験と刺激は、神経細胞の重みや動作の仕方を少しずつ変え、その変化が次の行動や思考に影響する。
もちろん人工ニューラルネットワークの重みと単純に同一視はできないが、学習の結果が物理的な構造と状態に反映されるという点では似た部分がある。

私たちは、このシステムの出力を意識的な選択として経験する。けれども、その選択が生まれるまでの演算を、すべて意識的に観察できるわけではない。
自由意志は、そのブラックボックスの中にあると信じているのではないだろうか。

スピノザは『エチカ』第1部の付録で、人が自分を自由だと考えるのは、自分の欲望を意識していても、その欲望を決定する原因を知らないからだと説明している。[Citation (interactive original)](https://yongseok.me/blog/ja/%EC%9E%90%EC%9C%A0%EC%9D%98%EC%A7%80%EC%99%80-%EA%B2%B0%EC%A0%95%EB%A1%A0/)
ただし、不透明さは説明の一部にすぎない。それだけで自由意志を説明できるわけではない。自由意志という感覚には、ほかにも要因が必要だ。
1つ、思考実験をしてみよう。

## 複製された私

構造と状態が完全に同じオートマトンが、何百台もあると仮定してみよう。
同じ環境で同じ入力を受ければ、すべて同じ出力を返す。何度繰り返しても結果は同じだ。

そのオートマトンを人間に置き換えてみる。
今度は宇宙そのものが、完全に同じ状態で複製されていると仮定しよう。
観測可能な環境や量子状態だけでなく、まだ知らない基底の存在論的状態まで、すべて同一なのだ。
その状態で同じ因果的な規則が働くなら、各宇宙の人間が生み出す行動と思考も同じになるだろう。

では、そのオートマトン、あるいはその人間たちは、自由意志で行動しているといえるのだろうか。
もちろん、決定する行為自体を自由意志と捉えるなら、そういえるだろう。けれども、全員が同じ思考と行動を示すなら、その選択のどこに「私」だけの意志があるのだろうか。

自由意志は私から生まれるものなのに、その環境では「私」をほかの個体と区別する要素が何もない。そこでは「私」にどんな意味があるのだろうか。

そうした環境で、自由意志を論じる意味があるのか、よくわからない。全員が同じ結果を返すので、固有性がない。ここでは私の意志が、そのまま他人の意志でもある。その行動をしたのは私個人ではなく、私という種類の存在なのだ。自由意志が存在するには、固有性の認識が伴わなければならないのだろうか。

今度は、これらのオートマトンが異なる環境で長い時間、刺激に反応し、学び、変化すると仮定しよう。それぞれが出会う刺激や経験が違うので、内部状態も少しずつ異なっていく。無数のティックを経れば、同じ入力にも異なる出力を返すシステムになるだろう。

ここで重要なのは、この違いが非決定論的に作られたわけではないことだ。
異なる環境に置かれた理由も、そこで何を経験したかも、その結果として内部構造がどう変わったかも、以前のティックの因果関係へとさかのぼれる。
固有性そのものが、決定論的な結果なのだ。

現実に観察するのは、それぞれ違う出力を生む個体たちだ。しかし、その個体がどんな因果的な歴史を経ていまの状態に至ったかまでは、なかなかわからない。
あまりに複雑で異なる結果が現れるから、私たちはそれを、各自の独立した選択として受け取っているのではないだろうか。

個体の出力は、観察者には確率的で多様な分布のように見える。しかし、それぞれの出力が何の原因もなく選ばれたという意味ではない。

もちろん、固有性が自由意志だという話ではない。固有の結果が現れたからといって、それを必ず自由な行動だと認識するわけでもない。
ただ、自由意志として感じる現象の一部は、こうして決定論的に作られた固有性と、その違いを認識する過程から生まれるのではないかと思う。

固有性は、ある個体が単独で持つ性質ではなく、ほかの個体との差、デルタだ。複製が完全に同じならデルタは0で、歴史が分かれるほどデルタは大きくなる。
現実には、まったく同じ歴史を持つ2人はいないので、デルタが0になることはない。複製の実験は、デルタが0に近づくと何が起こるかを示す極限の事例にすぎない。

「私」を他者との関係の中で理解するという点では、ヘーゲル（G. W. F. Hegel）の承認（Anerkennung）の議論も思い浮かぶ。ヘーゲルは自己意識を、ほかの自己意識に承認される関係の中で説明する。[Citation (interactive original)](https://yongseok.me/blog/ja/%EC%9E%90%EC%9C%A0%EC%9D%98%EC%A7%80%EC%99%80-%EA%B2%B0%EC%A0%95%EB%A1%A0/) ここで私が述べている個体間の違いと同じ概念ではないが、「私」を孤立した個体としてだけでは説明しにくいという点で、つなげて考えられそうだ。

自由の条件は決定論に抗うものではなく、決定論の産物なのだ。

## 自由という言葉

では、そもそもここでいう自由とは何なのだろうか。
完全な無作為性だろうか。けれども、無作為に生じた結果が、なぜ自由な選択になるのだろうか。

自由を原因から独立した選択と定義するなら、決定論的世界では成立しにくい概念だ。（それは世界の規則では説明できない、魔法のようなものになるからだ！）
一方、自分の判断や意図に従って行動することを自由と呼ぶなら、その意図も因果的な結果であることと、必ずしも矛盾しない。

結局、私たちが自由と呼ぶものが何か、というところから難しくなる。
すべては決まっていて、私たちはその道を歩くだけだと知ったとき、自分を自由だと判断できるのだろうか。

もちろん、世界の未来が決まっていることと、その未来を計算できることは別の問題だ。私たち自身も巨大な状態機械の一部であり、世界の基底状態を外からすべて観察する、メタな存在ではない。観察し理解できるものは常に限られ、その範囲では未来はなお確率的に記述されうる。
だからといって、その確率が必ず世界の根本的な非決定性を意味するわけではないだろう。

では、なぜ人間は自由意志があると信じたいのだろうか。
定義することさえ容易でないのに、なぜそれを自分の一部であってほしいと願うのだろうか。

自分の固有性を保証されたいからだろうか。他の個体とは異なる存在でありたい、その固有性を後世に伝えたいという、生物学的欲求が土台にあるのだろうか。

あるいは、抑圧への反発が自由への欲望として表れるのだろうか。
人間は社会化を通じて共通の規範や行動様式を学ぶが、それぞれの因果的な歴史は違う。そうして形づくられた固有の欲求と、社会の要求がぶつかるとき、私たちは自由という概念をより強く意識するのかもしれない。

さらに、自由意志という概念に本能的にこだわることには、人間の脳の計算上の限界も関わっていないだろうか。

行動の原因を理解するため、以前のティックの因果を果てしなくさかのぼるのは、生物学的にはあまりにコストが高い。だから脳は、因果の連鎖をすべて計算する代わりに、適当なところで考えを区切ったり、それまでに学んだ脳内のモデルで推論したりする。

人間という集団が社会化によって共通に学んだ土台の上に、各自の経験を重ねたモデルで、世界を確率的に推定する。トランスフォーマーが、世界の物理法則をすべてシミュレーションする代わりに、それまで与えられた文脈から次の単語を予測するように。

脳はパターン化を好む。自分の中の複雑な神経ネットワークが次の出力を作る過程をすべて観察できないので、その曖昧なブラックボックスに「自由意志」と名付ける。他人の歴史をすべて知れないので、目の前の行動に「善と悪」のラベルを貼る。
複雑な因果関係を、一種の非可逆圧縮（Lossy Compression）によって処理しているわけだ。

もちろん、これも推測にすぎない。こうした心理や認知の仕組みの起源は、進化生物学や神経科学、脳科学の領域であり、簡単には断定できない。いつか人間の脳の具体的な動作原理をもっと深く理解できれば、自由意志への渇望がどんな仕組みから生まれるかも、説明できるのではないだろうか。

## 決定論的な解像度

私が、決定論的世界では自由意志は存在しえないと主張することに、どんな意味があるのか。あまり役に立つ主張だとは思わない。
だから私は、自由意志の有無を断定するより、私たちがなぜその概念を作り、求めるようになったのかが気になる。

では、すべてが決定論的な世界で、私たちが悩み、判断することには、どんな意味があるのだろうか。

決定論的であるとは、説明可能だという意味であって、人生で何かに引きずられるという意味ではない。
私たちの思考はすでにその上の層にあり、因果過程から派生したものであると同時に、その過程に参加する存在でもある。いま考えていることも、もちろん過去によって決まったものだ。それでも、この営みを生きている私の立場からは、その外に出てメタに眺めることはできない。だから参加者として、絶えず次の因果を作り出す。

異なる層をまたいで自由意志を考えていたから、複雑に感じたのかもしれない。

決定論的世界に生きることは、未来の因果にどんな意味を与えられるのだろうか。自由意志を求める根底の欲望は有効なのか。どんな意味を持つべきなのか。

だから私は、生きるうえで重要なのは、決定論的な解像度を上げることだと思う。
以前、[認知の牢獄](https://yongseok.me/blog/ja/congitive_prison/)という記事で、世界のすべての変数を理解できない私たちは、それぞれがサンプリングした物理エンジンで世界を解釈する、という話を書いた。

先ほども述べたように、解釈できる変数や実行できる計算には限界がある。もちろん、いまその限界まで使い切っているとは思わない。以前の短い文章でも触れたように、私たちは説明できる世界を作りたい。解釈力を高めるとは、捉えている因果をもっと細かく理解できることだ。説明できる範囲を広げ、自分に、そして私たちに与えられたものを、より鮮明に認識し計算することが、この決定論的世界で取り組むべきことではないだろうか。

何が正しく、何が間違っているかを判断するのと同じくらい、自分がどんな解像度の世界を見て判断しているかを知ることも重要ではないか。
過去のティックをどれだけ理解できるのか。何が圧縮されて省かれ、どんな因果的な仕組みが現在の状態を作ったのか。

原因を知らずに引きずられれば隷属であり、原因を適切に理解すれば、同じ必然の中でも自由である。自由は程度の問題であり、その程度を高めるのは原因への理解だ。私はそれを解像度と呼ぶ。

## おわりに

ここまで考えると、少しむなしい気持ちにもなる。
決定論的世界ではすべてが因果の結果だという主張は、ある意味、あまりに当たり前にも感じる。そしてその事実だけで、何をすべきかという具体的なメッセージが生まれるわけでもない。

私自身、固有の考えを見せて、少し格好をつけたくて、こんな論理を並べているのかもしれない。
その欲望さえ、それまでの経験と学習で形づくられた結果だろう。
そう考えると、おかしな話だ。この文章の論理に従えば、その欲望こそ固有性を認められたいという願いであり、その固有性は決定論が生んだものなのだから。

それでも、何らかの結論に達しなければ、こうした思索に意味がないとは思わない。

世界は複雑で、私たちの理解する世界はいつも限られている。だから現在の判断を完全な答えだと確信するより、より多くの文脈を理解しようとする努力が必要ではないだろうか。
それは他人の行動かもしれず、社会の現象かもしれず、自分の思考や判断かもしれない。

理解の解像度が上がるほど、以前には見えなかった因果関係が現れるだろう。新しい因果を理解すれば、以前の判断も変わるかもしれない。

もちろん、解像度を上げれば、すべての問題に答えが与えられるわけではない。
けれども広い文脈を理解できれば、少なくとも以前とは違う問いを立てられるのではないか。

そうして問い、話し、判断を修正することも、世界の次のティックを構成する営みなのだろう。

結局、私が大切だと思うのは、完成された真理に到達することではなく、自分の理解する世界の解像度を、絶えず高めていく過程なのだと思う。
私たちは、すでにその中を生きているのだから。

ただ、終わりのない対話と訓練が必要なのだ。

## 補記へ進む前に

この文章は、初めから世界が存在論的に決定論的だと仮定して出発した。現代物理学がその仮定を保証しているわけではない。量子力学は測定結果を確率で記述し、その予測は実験で非常に高い精度を示している。ただ、確率で記述されることと、世界が根本的に非決定論的であることが同じ意味なのかは、別に問う必要がある。以下の補記では、この問いを抱えながら決定論を手放さなかった解釈、つまりド・ブロイ＝ボーム理論、トホーフトのセル・オートマトン、パーマーの不変集合理論が、ベルの定理に対して何を手放し、何を守ったのかを整理する。本文のティックと状態機械が、そのうちどの考えに近いのかも、そこで改めて考える。

## 補記：オートマトンとしての宇宙と決定論的な量子解釈

主流の量子力学のコペンハーゲン解釈では、通常、波動関数の収縮に伴う個々の測定結果を根本的に確率的なものと解釈する。しかしアインシュタインをはじめ、こうした「原因のない結果」を受け入れがたく感じた物理学者たちは、量子現象の背後にも決定論的な因果が働きうるという、別の解釈を示した。

アインシュタインは「神はサイコロを振らない」という言葉で、量子力学の確率的解釈への考えを表したことがある。

彼が重んじたのは決定論だけでなく、局所性（Locality）という原則だった。遠く離れた2つの物理系で、一方の出来事が光より速く他方の物理的実在へ影響することはない、という考えだ。

1935年、アインシュタインはボリス・ポドルスキー、ネイサン・ローゼンとともに、いわゆる[EPR論文](https://doi.org/10.1103/PhysRev.47.777)[Citation (interactive original)](https://yongseok.me/blog/ja/%EC%9E%90%EC%9C%A0%EC%9D%98%EC%A7%80%EC%99%80-%EA%B2%B0%EC%A0%95%EB%A1%A0/)を発表した。
この論文の問題は、今日、量子もつれと呼ぶ現象に関係する。
元の論文は位置と運動量を扱ったが、スピンを使って考えるとわかりやすい。

[ConceptNote (interactive original)](https://yongseok.me/blog/ja/%EC%9E%90%EC%9C%A0%EC%9D%98%EC%A7%80%EC%99%80-%EA%B2%B0%EC%A0%95%EB%A1%A0/)

もつれた2つの粒子が遠く離れていると仮定しよう。全スピンが0の状態なら、同じ方向でスピンを測ると、一方が上向きなら他方は下向きになる。
それぞれの結果は確率的でも、一方の結果がわかれば、他方の結果を確実に予測できる。

しかし十分に離れた2粒子で、一方の測定が他方の物理的状態を即座に変えるとは考えにくい。
では、他方の粒子は観測前から、その結果を決める物理的性質を持っていたのではないか。

これがEPRの議論の出発点だ。アインシュタインは、波動関数が自然の完全な記述ではなく、まだ捉えられていない物理的情報があるかもしれないと考えた。

この考えは、その後、局所的な隠れた変数（Local Hidden Variables）の問題へ発展する。
粒子が初めから結果を決める情報を持ち、離れたあとには互いに影響しないなら、量子もつれを説明できるのではないかということだ。

しかし、この考えには重要な問題があった。

1964年、物理学者ジョン・スチュワート・ベルは[ベルの定理](https://doi.org/10.1103/PhysicsPhysiqueFizika.1.195)[Citation (interactive original)](https://yongseok.me/blog/ja/%EC%9E%90%EC%9C%A0%EC%9D%98%EC%A7%80%EC%99%80-%EA%B2%B0%EC%A0%95%EB%A1%A0/)を通じ、局所的因果性や測定設定の統計的独立性などの条件を満たす理論が作れる相関には、数学的な限界があることを示した。

[ConceptNote (interactive original)](https://yongseok.me/blog/ja/%EC%9E%90%EC%9C%A0%EC%9D%98%EC%A7%80%EC%99%80-%EA%B2%B0%EC%A0%95%EB%A1%A0/)

同じ方向で反対の結果が出るだけなら、問題にはならない。粒子が事前に結果を決める情報を持っていたと考えられるからだ。

問題は、2粒子を異なる方向で測ったときの相関にある。測定方向の組み合わせを変えて得た結果を比べると、局所的な隠れた変数で説明できる相関には限界が生じる。
代表例のCHSH不等式では、こうした局所モデルの上限は2だが、量子力学は特定の条件で約2.83まで予測する。

[ConceptNote (interactive original)](https://yongseok.me/blog/ja/%EC%9E%90%EC%9C%A0%EC%9D%98%EC%A7%80%EC%99%80-%EA%B2%B0%EC%A0%95%EB%A1%A0/)

実際の実験では、ベルの不等式を破る結果が繰り返し観測された。2015年には主要な実験上の抜け穴をふさいだ[ベル実験](https://doi.org/10.1038/nature15759)[Citation (interactive original)](https://yongseok.me/blog/ja/%EC%9E%90%EC%9C%A0%EC%9D%98%EC%A7%80%EC%99%80-%EA%B2%B0%EC%A0%95%EB%A1%A0/)も行われ、この研究の系譜は[2022年のノーベル物理学賞](https://www.nobelprize.org/prizes/physics/2022/press-release/)[Citation (interactive original)](https://yongseok.me/blog/ja/%EC%9E%90%EC%9C%A0%EC%9D%98%EC%A7%80%EC%99%80-%EA%B2%B0%EC%A0%95%EB%A1%A0/)へとつながった。

結局、粒子が事前に持つ局所的な情報だけで、量子現象の相関をすべて説明するという、アインシュタインが期待した考え方は、実験結果と両立しにくくなった。

だからといって、決定論そのものが反証されたわけではない。
ベルの議論には複数の前提が含まれている。どれを維持し、どれを手放すかによって、異なる物理的解釈はなお可能だ。

また、不等式の破れが、光より速く情報を送れることを意味するわけでもない。ここで問われる局所的因果性と、相対性理論での信号伝達の可能性は区別する必要がある。

### 決定論を維持しようとする解釈

代表例が[ド・ブロイ＝ボーム理論](https://plato.stanford.edu/entries/qm-bohm/)[Citation (interactive original)](https://yongseok.me/blog/ja/%EC%9E%90%EC%9C%A0%EC%9D%98%EC%A7%80%EC%99%80-%EA%B2%B0%EC%A0%95%EB%A1%A0/)だ。
1927年にルイ・ド・ブロイが提案し、1952年にデヴィッド・ボームが発展させたこの理論では、粒子は観測前にも実際の位置を持ち、波動関数がその動きを決定論的に導く。

通常の量子力学では、波動関数から各位置で粒子を発見する確率を計算する。一方、この理論には波動関数に加えて、粒子の実際の位置という変数が存在する。

波動関数はシュレーディンガー方程式に従って変化し、粒子の位置は別のガイディング方程式に従って変化する。したがって、波動関数と全粒子の初期位置が与えられれば、その後の運動も決まる。

[ConceptNote (interactive original)](https://yongseok.me/blog/ja/%EC%9E%90%EC%9C%A0%EC%9D%98%EC%A7%80%EC%99%80-%EA%B2%B0%EC%A0%95%EB%A1%A0/)

二重スリット実験でも、粒子は実際にどちらか一方のスリットを通るが、波動関数がその経路を導くので、多くの粒子の到着位置を集めると干渉縞ができる。
観測する確率は、粒子の正確な初期位置を知らないために現れると説明する。

ただし、この理論はアインシュタインが重んじた局所性を維持しない。

EPRの議論では、離れた粒子同士が即座に影響せず、それぞれが持つ物理的性質で測定結果を決められると考えていた。

しかしド・ブロイ＝ボーム理論では、もつれた粒子を1つの共同の波動関数で記述する。この波動関数は各粒子を独立に説明するのではなく、複数の粒子の位置をまとめて変数に取る。

そのため、ある粒子の運動が、遠くの別の粒子の実際の位置に依存しうる。さらに、一方の測定装置の設定が、他方の運動を決める過程に非局所的に関わることがある。
粒子の結果は決まっているが、その決まり方は、各粒子のすぐ周囲だけに依存するわけではないのだ。

もちろん、この非局所的な依存を使って、光より速く望む情報を送れるという意味ではない。
ド・ブロイ＝ボーム理論は、決定論を維持する代わりに、局所的因果性の要求を手放す考え方である。

少し異なる考え方もある。

1999年のノーベル物理学賞受賞者ヘーラルト・トホーフト（Gerard 't Hooft）は、[セル・オートマトンによる量子解釈](https://arxiv.org/abs/1405.1548)[Citation (interactive original)](https://yongseok.me/blog/ja/%EC%9E%90%EC%9C%A0%EC%9D%98%EC%A7%80%EC%99%80-%EA%B2%B0%EC%A0%95%EB%A1%A0/)を示した。
量子力学で説明する世界の下に、より根本的な決定論的状態がある可能性を探るものだ。

トホーフトは、決定論的なシステムも量子力学の数学的言語で表せることから出発する。

たとえば、区別できる複数の状態があり、決まった規則で次の状態へ遷移するオートマトンを考えよう。
各状態をヒルベルト空間の基底ベクトルで表すと、状態遷移は基底の順序を入れ替える置換演算子で表せる。この置換演算子もユニタリ演算子の一種なので、シュレーディンガー方程式で使う数学的形式で扱えるというわけだ。

[ConceptNote (interactive original)](https://yongseok.me/blog/ja/%EC%9E%90%EC%9C%A0%EC%9D%98%EC%A7%80%EC%99%80-%EA%B2%B0%EC%A0%95%EB%A1%A0/)

実際のシステムは毎瞬間、1つの定まった状態を持って遷移していても、それを記述するために量子力学の数学的な道具を使える。

トホーフトは、この基底の実際の状態を存在論的状態（Ontological State）と呼び、量子力学で使う重ね合わせ状態を、それらを記述するためのテンプレート状態（Template State）と解釈する。

では、私たちの使う波動関数は、必ずしも世界の根本的な実在をそのまま表しているのだろうか。それとも、下にある決定論的状態を扱うための、数学的な表現なのかもしれない。

とりわけ、離散的な状態が規則に従って遷移するセル・オートマトンを通じ、この可能性を探る点が興味深い。
本文で想像したティックと状態機械の構造を思い出す。

ただし、決定論的オートマトンを量子力学の数学で表せることと、実際の宇宙がそのオートマトンであることは別だ。

トホーフトも、すべてのオートマトンが実際の量子現象を説明できるとは主張していない。既知の粒子や相互作用、相対論的対称性などを再現する、根本的なシステムを探す課題が残っている。
宇宙がプランク時間ごとに更新される巨大なオートマトンだと、証明されたわけでもない。

それでも、決定論的なシステムを量子力学の言語で記述できるという考え自体が面白かった。本文の非可逆圧縮と同じ概念ではないが、使っているモデルと世界の基底状態を分ける点で、似たことを考えさせられる。

### 超決定論と不変集合理論

もう1つの考え方が、超決定論（Superdeterminism）だ。

ベルの不等式の導出では、実験者が選ぶ測定方向と、粒子の隠れた変数が統計的に独立である、測定独立性を仮定する。超決定論は、この仮定を問い直す。測定対象の粒子だけでなく、装置や観察者の選択も同じ宇宙の因果的歴史に属するのに、両変数が完全に独立である保証はどこにあるのか。

もちろん、共通の過去があるだけで、統計的独立性が自動的に破れるわけではない。量子現象を説明するには、なぜその相関が生まれるか、具体的な仕組みを示す必要がある。そのため超決定論は、必要な相関があまりに作為的な「微調整（Fine-tuning）」だとか、検証しにくいという批判を受け、主流の物理学では広く受け入れられていない。

これに対し、ザビーネ・ホッセンフェルダーとティム・パーマーは、2020年の[論文](https://arxiv.org/abs/1912.06462)[Citation (interactive original)](https://yongseok.me/blog/ja/%EC%9E%90%EC%9C%A0%EC%9D%98%EC%A7%80%EC%99%80-%EA%B2%B0%EC%A0%95%EB%A1%A0/)で、こうした批判は超決定論全体を排除する理由にはならず、具体的なモデルを通じて検証可能性を探れると論じた。その代表例が、パーマーの発展させてきた不変集合理論（Invariant Set Theory）だ。

2009年の[The Invariant Set Postulate](https://arxiv.org/abs/0812.1148)[Citation (interactive original)](https://yongseok.me/blog/ja/%EC%9E%90%EC%9C%A0%EC%9D%98%EC%A7%80%EC%99%80-%EA%B2%B0%EC%A0%95%EB%A1%A0/)で、パーマーは、従来の力学のように方程式による変化を問う前に、宇宙の状態空間でどの状態が物理的に可能かを、幾何学的に定義することから出発する。

カオス理論では、決定論的規則に従う非線形システムの状態が、時間とともに特定の領域へ集まり、その中で軌道を描くことがある。これをアトラクターと呼び、その中には、拡大しても自己相似的構造が現れるフラクタル状のストレンジアトラクターがある。

[ConceptNote (interactive original)](https://yongseok.me/blog/ja/%EC%9E%90%EC%9C%A0%EC%9D%98%EC%A7%80%EC%99%80-%EA%B2%B0%EC%A0%95%EB%A1%A0/)

パーマーは宇宙全体の状態空間も、あらゆる変数の組み合わせを自由に実現できる連続空間ではなく、時間がたってもシステムが内部にとどまる、フラクタルな不変集合上にあるという仮説を示した。

フラクタル構造の特徴は、線分の中央を取り除く操作を無限に繰り返すカントール集合を思い浮かべるとわかりやすい。無限の点が残る一方、至るところに無数の隙間、つまり集合の外部がある。

[ConceptNote (interactive original)](https://yongseok.me/blog/ja/%EC%9E%90%EC%9C%A0%EC%9D%98%EC%A7%80%EC%99%80-%EA%B2%B0%EC%A0%95%EB%A1%A0/)

したがって、状態空間で非常に近く見える2状態でも、一方は不変集合上にあり、もう一方は隙間に落ちることがある。見かけ上は変数1つがわずかに変わっただけでも、一方は物理的に許され、他方は宇宙で実現できない状態になる。

この幾何学的制約は、ベルの不等式が前提とする反事実的仮定（Counterfactual）を崩す。私たちは「粒子の隠れた状態をそのままにして、あのとき測定装置の角度だけ変えていたら？」と自然に想像する。しかし不変集合理論では、実際に生じた状態から測定設定だけを自由に変えた組み合わせは、フラクタルの隙間、つまり不変集合の外へ落ちる。論理的には想像できても、物理的には到達できない状態になるのだ。

ここで自然な疑問が生まれる。角度をほんの少し変えただけで物理的に不可能になるなら、それこそ超決定論が批判されてきた、作為的な微調整ではないのか。

パーマーはこれに対し、[2015年の研究](https://arxiv.org/abs/1507.02117)[Citation (interactive original)](https://yongseok.me/blog/ja/%EC%9E%90%EC%9C%A0%EC%9D%98%EC%A7%80%EC%99%80-%EA%B2%B0%EC%A0%95%EB%A1%A0/)で、フラクタル構造上の距離を定義し直すp進距離（p-adic Metric）を導入した。2数の差が、ある素数のべき乗でどれだけ割り切れるかによって距離を定める。通常のユークリッド距離で近く見える2状態でも、一方が不変集合の外にあれば、実際には非常に遠い状態になる。基底の状態空間固有の距離で見れば、微調整ではなく、まったく別の状態を排除する自然な結果なのだという説明だ。

さらに[2020年の研究](https://doi.org/10.1098/rspa.2019.0350)[Citation (interactive original)](https://yongseok.me/blog/ja/%EC%9E%90%EC%9C%A0%EC%9D%98%EC%A7%80%EC%99%80-%EA%B2%B0%EC%A0%95%EB%A1%A0/)では、この抽象的な幾何学モデルを、量子力学のスピン状態を表すブロッホ球面へ直接適用した。球面上の角度を有限のビット列で離散化し、それをフラクタルな不変集合の軌道とつなげることで、局所性と決定論を維持しつつ、ベル不等式の破れを数学的に導く具体的モデルへ発展させた。

[ConceptNote (interactive original)](https://yongseok.me/blog/ja/%EC%9E%90%EC%9C%A0%EC%9D%98%EC%A7%80%EC%99%80-%EA%B2%B0%EC%A0%95%EB%A1%A0/)

不変集合理論は、時間の離散化より、宇宙の状態空間の幾何学的制約に重点を置く。その点で、本文で想像したティックに基づく状態機械と、まったく同じではない。

それでも、宇宙の状態遷移が任意の可能性の間を自由に移動するのではなく、基底の規則が許す軌道上だけで決定論的に起こるという見方には、強く通じるものがある。

もちろん、パーマーの仮定するフラクタル構造が実際の宇宙にあるのか、有限の状態表現から生じる制約などを通じて、通常の量子力学と区別できる実験的証拠を見つけられるかは、なお開かれた課題だ。

それでも、「別の選択ができた可能性」という、自由意志の根拠のように考えてきたものを、状態空間の幾何学的制約から捉え直す思考に出会えただけで、十分に興味深かった。

### 再び、決定論的な解像度へ

これらの理論を調べて改めて考えたのは、世界が決定論的かという問いと、その世界をどれほど理解できるかという問いは違う、ということだ。
前者は世界が実際にどう存在するかという存在論的な問いで、後者はどこまで観察し予測できるかという認識論的な問いである。

決定論的な基底があっても、観察者がその状態をすべて知れるとは限らない。
逆に、ある現象を確率で説明しているだけで、その確率が世界の究極的な性質だと断定することもできない。

だからといって、確率が単に未知の変数を圧縮した結果だと証明されたわけでもない。少なくとも現在の量子力学と実験は、その結論を確定してはいない。

### 参考文献

[References (interactive original)](https://yongseok.me/blog/ja/%EC%9E%90%EC%9C%A0%EC%9D%98%EC%A7%80%EC%99%80-%EA%B2%B0%EC%A0%95%EB%A1%A0/)
